京都市左京区一乗寺松原町の厄よけ・ガン封じ・交通安全・自動車祈祷の総本山 【真言宗修験道 大本山 狸谷山不動院】
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狸谷山不動院ブログ | 真言宗修験道 大本山 狸谷山不動院

狸谷山不動院ブログ
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本堂

狸谷山の歴史を振り返れば、御本尊狸谷不動明王は江戸中期の享保3年(1718)、狸谷山開基木食正禅朋厚の手によって霊験あらたかな現洞窟に安置されました。当時の様子は「拾遣都名所図会」(1787年刊)の中に「狸谷石不動」と題して次のように記載されております。

「一乗寺村天王より艮十町余にあり 行路嶮岨なり 高さ二丈深さ二丈許の石窟あり 中に石像の不動尊を安置す 長五尺許 木食正禅の立る所なり 窟の口に扉あり 高さ四尺許厚さ一尺余 表に木食正禅朋厚と鐫す 霊験いちじるしくてつねに詣人多し 此地四隣峭壁にして谷深し 樹林蓊鬱として白日を蔵す」

狸谷不動明王の眼力と洞の神秘

正徳5年(1715)木食正禅朋厚は木食行(五穀を絶ち木の実を食べる行)を修する為、京・洛北一乗寺村東北の狸谷と呼ばれるところに(東山三十六峰第8峰目瓜生山中腹)、高さ深さとも二丈からなる洞窟の存在を耳にします。そこは谷深く四方鬱蒼とした山々で、この霊験あらたかな洞窟は木食行の行法を修するには大変ふさわしい場所と考え、狸谷山入山を決意したのです。しかし、その木食行は困難を極めました。そのさなかには熊野詣の難行苦行もあり、ついには熊野の山々とここ一乗寺狸谷の山々は酷似していたことから、熊野権現が山伏の尊形になって現われ鉦・鍾木・杖の三種の神宝を授かり、ここに狸谷山修験道の法流が誕生したのです。そこで享保3年(1718)、木食正禅朋厚は「狸谷山修験道」の御本尊として、新たに自ら刻んだ身の丈五尺の石像狸谷不動明王をその洞窟の中に安置しました。当時から狸谷不動明王の鋭い眼力と洞の神秘によって、霊験あらたかな狸谷不動明王への参詣人は時代を超えても絶えることはなく、途中明治の廃仏毀釈がありながらも、その祈りの法灯はまもなく300年を迎えようとしています。

 

木食正禅朋厚は時のヒーローか

木食正禅朋厚は後に木食正禅養阿上人を名乗りますが、貞享4年(1687)、丹波保津村で生まれ俗名村上茂八郎と言いました。23歳の時、泉涌寺雲龍院にて出家得度し、名を「朋厚房正禅法師」と改め四宗(真言・天台・浄土・禅)を兼学し、その後は更なる修練を求め、真言宗根本道場である高野山に入山し木食行の伝授を受けることになります。その後、都に戻りその木食行の実践場所として狸谷と呼ばれるところに霊験あらたかな洞窟の存在を耳にするのです。そして享保3年(1718)朋厚房31才にて狸谷山入山し、その参籠は足掛け18年にも及び、その頃「狸谷詣」が始まったと伝えられています。それは、朋厚房の軌跡が書かれている『木食正禅養阿上人絵詞伝』(安祥院所蔵)によれば、その「巌洞群衆の事」の中に、朋厚房を慕って人々が狸谷へ群れをなし、当時の奉行所から狸谷下山命令が出るといった記述もあります。また、朋厚房の宗教観はこの四宗を兼学したことから、それは多元的なものでした。それは現洞窟に狸谷不動明王を安置し、聖徳太子、弘法大師、行基、空也、源信に私淑し、天台大師、善導大師、浄土教の理念を尊厳し、光明真言や陀羅尼を唱え、阿弥陀如来に帰依し阿弥陀念仏を唱えるというまさに過剰とも言える多元的宗教観でした。しかし、その宗教観は、深さと厚みをもった、しかも複雑な「現実」に対応するためのもので、朋厚房はその「現実」に直視しながら、狸谷参籠中の朋厚房を慕う参詣人に対し狸谷不動明王御前で加持祈祷を修していくのです。また、しばしば狸谷を下山した朋厚房は、霊魂救済のため六墓五三昧の寒廻り念仏を行い重罪無縁、不遇の人々へ供養を施します。特に、都の十ヶ所にその供養のための名号碑を建立しましたが、その中でも今の三条通り日ノ岡交差点付近に建つ4メートルにも及ぶ「南無阿弥陀佛」の名号碑は有名です。その他、真如堂阿弥陀如来像建立、洛陽六阿弥陀巡り(真如堂・永観堂・清水寺阿弥陀堂・安祥院・安養寺・誓願寺)の設立など、それは不動明王帰依に限らず阿弥陀帰依をも伺わせる多元的宗教観だったのです。また、朋厚房はこのような宗教活動だけでなく、行政面での足跡に注目しなければなりません。それは、東海道最後の難所であった日ノ岡峠(現在の京都市山科区)や、渋谷街道の道路改修工事です。特に日ノ岡峠改修にあたっては、京の町に出向き勧進によって浄財を集めその費用を改修に充てたと伝えられ、牛車の負担を軽くする為に敷設した「車道」「車石」はあまりにも有名です(現在三条通り日ノ岡交差点付近に車石広場があります)。

 

森林伽藍(がらん)

ご承知の通り「伽藍」とは寺院の建造物郡を意味します。現在の狸谷山不動院は、狸谷不動明王を安置する本堂を始め、大師堂光明殿、白龍弁天堂、三社明神堂、水子地蔵堂、そして山麓には自動車祈祷殿など、全ての建造物を総称して「伽藍」と言います。しかし、現在の伽藍が整備されるまでは、現洞窟に安置されている狸谷不動明王と、それを取り囲む鬱蒼とした木々たちでした。つまり、狸谷のお山は、元々建造物で成り立っている「伽藍」ではなく、周辺の木々たちで成り立っている「森林伽藍」だったのです。そして、今ではその建造物とそれらを取り囲む木々たちが狸谷不動明王をお守りしているのです。

 

自然を愛する心―狸谷山修験道

狸谷山不動院はこの「森林伽藍」の意味が示す通り、狸谷不動明王と周囲の森林とは互いに同化した関係にあることから、そこに当山法流の礎である「狸谷山修験道」の精神が存在するのです。これは、前述の通り熊野の山々とここ一乗寺狸谷の山々は酷似していたことから、熊野権現が山伏の尊形になって現われ、ここに狸谷山修験道の法流が誕生したことからも窺い知ることができます。近年世界規模で自然環境に対する関心が高まっていますが、その環境保全の活動も国、自治体、企業、市民とあらゆる社会レベルで実施されています。しかしながら、このような多くの環境保全の活動が実施されても、自然を精神的・文化的な拠り所としてとらえている活動は決して多くはないのです。元々、日本人の自然観は、自然を征服するという一方向的な自然観ではなく、自然と人間の関わりの中で生まれた双方向的な自然観こそが、この豊かな森林国・日本を維持してきたのです。狸谷山修験道法式「山伏問答」の中の「修験道とは如何」という問いに対し「修とは修行修学なり、験とは本有本覚の験行なり。即ち深山幽谷に分け入りて、苦修練行の巧を積み、自身の本心を修め 即身即仏の顕徳を表す道にて候」とあります。つまり、修験道ほど自然の中で修行する宗教はないのです。豊かな自然なくして修験道は成り立たないのです。それは、やはり「自然を愛する心」こそが狸谷山修験道の根本精神なのです。

 

祈力満山 ~祈りの力~

先に申し上げた通り、狸谷不動明王は狸谷山開基木食正禅朋厚の手によって霊験あらたかな現洞窟に安置されてから2018年で三百年を迎えます。実は、狸谷山開基以来約200年もの間はほとんど人の手が入らず、昭和19年(1944)朋厚房の再来を願い地元有志が立ち上がって、中興第一世亮栄大和上が入山、参道の拡張と二百五十階段の設置、そして旧本堂の建立(現本堂は昭和61年完成)など、狸谷詣の進路を再建しました。

では、人の手が入らなかった約200年も含め、その祈りの法灯が何故300年間続いたのか?

1718年以来脈々と続く祈りの法灯とはいったい何なのか?

それは「祈りの力」であります。やはり祈りには力があります。しかし、その力は私たちから出るのもではありません。たとえば特別な祈りをしたからといって、特別な力が出るものでもありません。つまり、その「祈りの力」は、私たちの願いを聞いて下さる狸谷不動明王から出てくるものなのです。だから、狸谷不動明王と私たちの接点は「祈り」であり、狸谷不動明王の発する「力」によってその祈りの力が生まれてくるのです。「祈りの力」―その「祈力」が狸谷山全山に満ち溢れているのです。まさに、狸谷山「祈力満山」。

お陰様で、この「祈りの力」で、300年間の祈りの法灯が継続されました。実は昭和20年頃、狸谷山不動院では次のような歌が流行しました。作詞は狸谷山不動院中興第一世亮栄大和上でした。この「祈りの力」がある限りは、昔の今もそして未来も、この歌の心は変わることはないでしょう。そして、その「祈りの力」によって祈りの法灯は次世代へと継承されていくのです。

 ありがたや 狸の谷の 不動尊 

           おかげいただき まいるよろこび

 


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