京都市左京区一乗寺松原町の厄よけ・ガン封じ・交通安全・自動車祈祷の総本山 【真言宗修験道 大本山 狸谷山不動院】
Facebook
Twitter
Instagram

厄よけ・交通安全・自動車祈祷 | 真言宗修験道 大本山 狸谷山不動院 | 狸谷山不動院縁起

狸谷山不動院:狸谷山不動院縁起
.
狸谷山不動院狸谷山不動院について 狸谷山不動院縁起

狸谷山不動院縁起

狸谷山不動院:狸谷山不動院縁起

 東海道最後の難所である日ノ岡峠の改修や渋谷街道の急坂改善などの社会事業を行ったことで知られる朋厚房正禅法師〈木食正禅養阿上人・貞享4年(1687)~宝暦13年(1763)〉は、若くして禅、律、真言、天台の四宗の要義を学び、また木食行を体得するため高野山に登った。そしてさらなる高みを目指して参籠修行の場を探し求めていた。

 すると正徳五年(1715)、洛北一乗寺村の狸谷と呼ばれるところに高さ、深さとも2丈からなる洞窟の存在を耳にする。この中には長年風雪にさらされながらもなまめかしく輝く尊像があった。それは建長3年(1249)に安置されたものと伝わる。また慶長九年(1604)、剣豪宮本武蔵が滝に打たれて修行を続け、己に克つ不動心を感得したのもこの地と知る。この霊験を感じた朋厚法師は、この狸谷こそ自身が籠って行法を修するにふさわしい場所と決意した。狸谷山の開山、享保3年(1718)朋厚法師31歳のときであった。

 狸谷を拠点とした参籠、木食行は困難を極めた。そのさなかには熊野詣の難行苦行もあり、ついには熊野権現が山伏の尊形となって現れ、鉦、鐘木、杖の三種の神宝を授かった。こうして狸谷山修験道が誕生したのである。法力を得た朋厚法師は狸谷山修験道のご本尊として新たに自ら刻んだ身の丈5尺の石造不動尊像を据えた。その尊容はかつて桓武天皇が平安京の城郭東北隅に鬼門守護として祭祀されたタヌキ(咤怒鬼)不動明王と同じといわれ、伝説の咤怒鬼不動明王が息を吹き返したと村人は歓喜し信仰の拠り所となっていった。その後、修行場として各地から参籠者が馳せ参じ大きな繁栄を見せ、狸谷山修験道の礎を築いた朋厚法師の参籠は足かけ17年にも及んだ。

 それから時は流れ、社会の変遷、為政者の干渉などもあり、明治の廃仏毀釈では残念なことに霊仏が草深く埋もれると云う嘆かわしい事態を招き、次第に荒廃してしまう地域が相次いだ。

 しかしながら明治の後期に至り、狸谷山の法灯を護持すべく意を決した郷土の有志が立ち上がった。由緒ある咤怒鬼不動明王の再現を強く願い、誰もが参拝できるように山を伐り道を拡げ250段の階段を整備し森林伽藍の基礎を作って、信心の進路を打ち立てた。こうして「朋厚法師の再来」を願う人々が一乗寺の地で生を受け、北海道の山寺で修行をしていた大僧正亮栄和尚を招聘し、昭和19年(1944)修験道大本山一乗寺狸谷山不動院として寺法を制定。寺門と修験道の両輪の繁栄を目指す「寺験興隆」を旗印に狸谷山不動院中興第一世貫主として、狸谷山不動院を再興したのである。時あたかも人心の低迷した戦後、勇気と活力を与え給うご本尊のご威徳は、愈々遍満し、祈りある者、必ず救われるの霊験宣布により、"タヌキダニのお不動さん"の御名が天下に響きわたり、関西隋一の信仰霊場として、大躍進が続けられたのである。ご本尊咤怒鬼不動明王の大威神力は、帰依する者の左右を離れず、衆生の願いに随って利益を与え給うの本誓を発揮して、縦横無尽に衆生を済度するのである。

Facebook
Twitter
Instagram